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更新日:2017年02月24日

甲府の水道の歩み

 今から約400年前の文禄3年(1594年)浅野長政が甲斐の領主となり、田用水として使用されていた荒川の水を武家屋敷と城下町の用水として確保したのが、「甲府用水」といわれており、江戸の神田上水(東京)と、ほとんど時を同じくして作られています。
しかし、農業用水との兼用だったため、飲用水の確保に大変苦労したようです。
甲府の人々が水に困った第1の理由は、よい井戸水に恵まれないためでした。限られた良質の水が取れる井戸から水を汲み上げ、桶に入れて売り歩く「水売り屋」と呼ばれる商売も生まれましたが、これを買えない人々も多く、不衛生な掘割の用水を使わざるをえなかったようです。

(写真:明治時代の水売り風景)

 


    
写真左:中区配水池通水式式典(創設期、大正2年)
写真中:旧元紺屋町水道橋通水(第1期拡張工事期、昭和8年)
写真右:中区配水池全景(創設期)


明治22年、甲府に市制がしかれて甲府市となり、政府による水道条例の公布や伝染病の蔓延、長年不衛生な用水に悩んできた市民からの要望から上水道布設の要請が高まりました。しかし、農民との水利権の争い、日清・日露などの戦争が起こったために20年もの間手をつけられず、ようやく明治42年に全国17番目の上水道として国の認可を受け、工事を着工し、大正2年1月全国で26番目に給水開始となりました


  
写真左:貯溜中の丸山溜池(千代田湖)荒川周辺の農業用水確保のためにつくられた
写真右:昭和浄水場全景(昭和35年)

その後、産業の発展や給水人口の増加に伴い、水不足が著しく、新たな水源確保が必須になり、さまざまな努力が重ねられましたが適した水源を得ることができませんでした。昭和水源を確保できたのは昭和30年代になってからです。この間、昭和38年から昭和町、昭和42年から敷島町(現在の甲斐市の一部)、昭和44年から玉穂町(現在の中央市の一部)へと給水区域が拡大していきました。そして、山梨県と共同で造った荒川ダムを含む第5期拡張工事が昭和63年に完成しました。
豊かな水を確保できるようになったのは、実に最近のことで、武田氏の時代からずっと水不足に悩み続けてきた甲府の住民にとって、荒川ダム完成は永い間の念願でした。
このように、水の豊かな山梨において、水源に恵まれなかった私たちは、多大な時間と費用を費やさなければなりませんでした。
現在では、甲府の水道水はおいしいと評価をいただき、全国的に断水が相次ぐ渇水時にも、安定した水量を供給することができるようになりました。

平成18年3月東八代郡中道町と合併し、中道町上水道事業を引継ぎました。


  
写真左:荒川ダム
写真右:甲府市上下水道局庁舎

水道の普及率が98%を超えた今、水道事業は拡張から維持・管理の時代へ移行しています。職員の人員削減や経費の節減、事業計画の見直しなどさまざまな企業経営の改善に努め、平成14年4月には水道料金の値下げを実施しました。
これからも安全でおいしい水を安定供給することに加え、親しみある水道事業の確立に取組んでまいります。